今年8月31日、ジュンク堂池袋本店で開催された当研究会代表・中村正人のトークイベントの後編です。前編はブームの背景や時期について、中編では「ガチ中華」とは具体的にどんな料理なのか解説しました。
後編では、それらがどこで食べられるのか。また「ガチ中華」誕生の理由という核心的なテーマと、なぜ日本の首都である東京に出現したのかについて解説します。
まず、どこで食べられるのかですが、都内で「ガチ中華」の店が多く出店している5つのエリアは以下のとおりです。
池袋、新宿・大久保・高田馬場(埼京線沿線エリア)
上野・御徒町
蒲田~川崎~横浜(中華街は除く)
錦糸町、新小岩、小岩(総武線沿線の城東エリア)
西川口・蕨
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都心から郊外に延びるJR&私鉄沿線
それぞれの出店エリアの店には異なる特徴があります。
特徴別に5つに分けて、それぞれ名付けてみました。特徴は以下のとおりです。
ターミナル系(池袋、新宿、上野・御徒町、横浜伊勢佐木町など)
これはJRのターミナル駅周辺(渋谷や品川、秋葉原は少ない)のことで、出店数と料理や業態のバリエーションの豊富さは随一です。中国系の人たちを含め、多くの人が通勤や通学で必ず立ち寄る駅なので、集客が期待できることが大きいです。
なかでも池袋は、1990年代から在日中国人のビジネスの町となっていたこと、上野は訪日中国人観光客の9割が訪れる町として知られることなどが、両エリアに出店数が多い理由となっています。
下町系(新小岩、小岩、蒲田、川崎など)
公団住宅やタワーマンションが多い江東区は、都内で在住中国国籍の人が最も多く、池袋や上野と違い、地元に溶け込んでいる店が多いのが特徴です。
留学生&多国籍タウン(高田馬場、新大久保)
中国人留学生に人気のある早稲田大学や中国人向けの大学予備校、日本語学校が集中する高田馬場やお隣の新大久保は、中国の若い世代が多く訪れるので、中国の食のトレンドの最前線ともいえる外食チェーンやザリガニ専門店など、珍しく新しい店が多いです。
中国系住民タウン(西川口・蕨)
川口市にある芝園団地には多くの中国の人たちが住んでおり、西川口や蕨の駅前には、住民がサンダル履きで通うような現地風の飲食店が多数あります。特に東北料理と福建料理の店が多いです。
私鉄沿線系(都心から郊外に延びるJR&私鉄沿線駅前)
沿線は当然のことながら日本人住民が多いので、「ガチ」度を抑えた「町中華」の代替となるような店が多いです。でも、店の壁にはメニューに載っていない「ガチ中華」料理の写真が貼られていることが多く、ぜひそちらを注文してほしいところです。
次に「ガチ中華」の誕生の理由を説明します。その前にそもそも「ガチ中華」とは何か? という問いから始めましょう。
まず基本認識から。「ガチ中華」は、中国の飛躍的な経済発展が生んだ産物といえます。
多くの日本人が「ガチ中華」についてよく知らなかったのはワケがありました。なぜなら、 これまで一般の日本人が知っていたのは、19世紀に中国南方から海外に渡った人たちが伝播し、広東料理などをベースに現地化した中華料理だったからです。
でも、「ガチ中華」は日本人がよく知る「町中華」とは、まったくの別物です。その料理の世界については、すでに「中編」で紹介したとおりです。
ひとことでいえば、「ガチ中華」は21世紀の現代中華料理なのです。
では、これから「ガチ中華」の誕生とその背景について説明していきます。
背景その1として、21世紀以降の中国の外食産業の発展があります。
具体的には以下のようなことがあります。
- ロジスティックスの進歩で食材が多様化
- 国内旅行ブームで地方料理が人気に
- 地方料理の全国化
- 外食チェーンが続々誕生
- 創作料理が次々生まれる
地方料理としていま中国で人気なのは雲南料理です。2000年代以降の中国の国内旅行先として最も人気があったことから、上海などの大都市圏で雲南料理の店がたくさんできました。
また外食チェーンのひとつの例として、もともと四川料理のひとり鍋的なものだった麻辣燙が外食チェーンとして全国展開していったところ、本格四川の痺れは他の地方の人にはきついということで、麻辣の度合いや具材を自分で選んで調理してもらうといったカスタマイズ化が進みました。
さらに、2010年代半ばから中国ではモバイル決済(店の予約から注文、支払いまで)が普及し、日本を先取りする飲食サービスも次々登場します。
こうしてグルメ大国の復活が起こったのです。なにしろ食は中国最大のエンターテインメントなのですから。それが日本に届くようになったのが、いま東京で起きていることです。
背景その2として、「ガチ中華」のメイン顧客は誰なのかという話があります。
実のところ、今日「ガチ中華」はワールドワイドな現象です。つまり、いま東京で起きている「ガチ中華」と同じような店が、国によって程度の差はあれ、北米やオセアニア、東南アジアなど、世界各地で見られます。
なぜでしょうか。それは、今日の中国は第4期の出国集中期にあり、歴史的にみても、これまでになく多数の中国の人たちが海外に渡っているからです。
中国人の4つの出国集中期は主に以下のとおりです。
第1期 8~9世紀 唐末の黄巣の乱の混乱
第2期 16世紀後半 明の海禁政策の解除
第3期 19世紀 イギリス植民地の拡大にともなう南方人の出国
第4期 1980年代~2010年代
特徴は、中国の改革開放政策にともなう「新華僑」が出国していること。とりわけ21世紀以降は豊かな時代に生れた高学歴の若い世代が多いこと。彼らが今日の「ガチ中華」のメイン顧客であり、これは労働移民が中心だった第3期との違いです。
背景その3として、なぜ「ガチ中華」は首都東京に多数出現したのか? という問いもあると思います。
東京にに「ガチ中華」の店が多いということは、それを支える中国系の人たちがたくさん存在するということでもあります。では、多くの中国系の人たちが東京を目指す心性とは何なのでしょうか。
そもそも彼らの来日の目的は何だったのでしょうか。身もふたもない言い方になりますが、それは自国では叶いそうもない「発財」を新天地で実現することでしょう。
「発財」とは財産を築くこと。「発財」するなら、日本最大の商都である「東京」と考えるのが自然でしょう。首都圏は中国系の人たちの人口も多いので、同胞とのネットワークも築きやすく、ビジネスチャンスも増えるからです。中国各地から来日する人たちには地方出身者も多く、なるべく首都に住みたいという思いもあると思います。
大学の数が多いことも理由でしょう。これは日本に限らないことですが、海外へと出国する中国の人たちの最初のステップは留学であることが多いので、大学の多い首都圏をめざすのだと思います。
ところで、東京で「ガチ中華」を担っているのはどんな人たちなのでしょう。
これは東京ディープチャイナ研究会のメンバーがこれまで発掘してきた多くの店とそのオーナーたちとの親しい交流を通じて見えてきことです。
ひとことでいえば、新華僑の3世代と第1世代の2世たちだということがいえます。
第1世代というのは、1980~90年代来日組(50代)で、代表的な人物としては、いまや「ガチ中華」の二大巨頭といえる「陳家私菜」の陳龐湧さんと「味坊」の梁宝璋さんでしょう。彼らが店を始めたのは、1990年代のことです。
同時期に同じ世代で飲食店を始めた中国の人たちの多くは、日本人の口に合わせた「中国家庭料理」を提供していましたが、このふたりは違いました。陳さんは本格的な四川料理を、梁さんは東北料理や羊料理といった「ガチ中華」の先駆けとなるメニューを提供しました。その後、ふたりの店は多くの日本人に支持されていきます。
第2世代は、2000年代来日組(40代)で、代表的な人物は「食彩雲南」の牟明輝さんと「秦唐記」小川克実さんでしょう。彼らが店を始めたのは、2000年代からです。
牟さんは創作雲南料理、小川さんはビャンビャン麺と、これまで日本になかった新しい「ガチ中華」を日本に持ち込みました。ふたりは、世代的に中国の古い時代も知っていますが、来日して以降、日本の飲食業界から多くのことを学びつつ、中国で生まれた新しい食の世界を日本に紹介することに努めました。
とりわけ小川さんには、2010年代のインバウンドブームもあって世にはびこった「食べ放題」中華の蔓延に大きな懸念を抱いていたことが、ビャンビャン麺を始める動機だったそうです。本当の中華はそんなものじゃない、という強い思いがあったのです。
第3世代は2010年代来日組(30代)で、代表的な人物は「湘遇Tokyo」の劉振軒さんと「九年食班」の紀恒さんでしょう。彼らが店を始めたのは、2010年代からです。
彼らはこれまで説明したように発展した中国外食産業のトレンドをそのまま日本に持ち込むことに取り組みました。劉さんはおしゃれな湖南料理、紀さんはレトロチャイナ食堂という新しいコンセプトの店ですが、どちらもいまの中国には普通にある飲食シーンでした。
さらに新たに加わりつつあるのが、第1世代の2世の人たちです。彼らは日本で育っていますから、親の世代とは発想も違います。いま彼らは親の稼業を手伝っていますが、これから新しい業態に挑戦することでしょう。
これからまたどんな「ガチ中華」の世界が見られるのか、楽しみです。
最後に、もうひとつジュンク堂のトークイベントで簡単に説明した話として、なぜコロナ禍にもかかわらず「ガチ中華」の出店は加速化したのかというテーマがあります。
こちらのテーマは、最近ForbesJAPANでコラムを書いたので、もしよろしければ読んでいただけるとうれしいです。
(東京ディープチャイナ研究会・中村正人)